誰も得しない日本史

誰も得しません

寺内正毅 ―総理大臣列伝―

 

寺内正毅内閣は、1916年10月に発足しました。米騒動とか、シベリア出兵の内閣です。

 

 

《日本語訳してみよう》

 

The flower that blooms in adversity is the rarest and most beautiful of all.(by Walt Disney)

※ adversity…逆境

 

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画像:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E6%AD%A3%E6%AF%85

 

寺内正毅は、1852年に生まれました。長州藩士の家です。この人、16歳で戊辰戦争に従軍してますね。そういえば、薩摩藩山本権兵衛は、鳥羽・伏見の戦いのときに16歳でしたが、18歳以上という年齢制限に引っかかったため、年齢を偽って参戦していました。藩によって従軍年齢が違っていたのでしょうか。長州藩は少年に厳しいですね。
nobuta.hateblo.jp

 

あ、よく調べたら、寺内正毅は、そもそも14歳のときに第2次長州征討に参加してました。長州藩は若者の命をなんだと思ってるんでしょうか。完全に、青少年なんとか系の条例に引っかかるやつですね。

 

寺内正毅は、かつて西南戦争における田原坂の戦いで、名誉の負傷をおいました。そのため、その後は前線で戦うのではなく、軍の教育部門などで活躍しました。1898年に初代陸軍教育総監になっているので、陸軍のアレげな教育はこの人のせいですね。陸軍士官学校の校長をやっているときは、校長官舎から望遠鏡で学生を見張っていたそうです。学生に意地でも7段ピラミッドとかやらせるタイプですね。

 

寺内正毅は、当時アメリカから日本に伝わって大流行りした、幸福の神様ビリケンに似ていることから、ビリケン宰相とよばれました。ビリケンは、今、通天閣にいますね。

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画像:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AA%E3%82%B1%E3%83%B3

 

ビリケン寺内正毅の画像を見て、カルノフを思い出した人は分かってる人です


1987 [60fps] Karnov 999999pts ALL

 

ビリケンな外見が有名ですが、若いころはけっこうイケメンでした。

ちょんまげ姿の写真も残っています。ぜひ探してみてください。新鮮ですよ。

 

寺内正毅は、米騒動の責任をとって総辞職したことで有名です。ただ、実はこのときまでに寺内正毅は肺癌が悪化していました。米騒動の前から何度か辞意を表明していたけど、後任候補がいないため辞めることができずに、癌が悪化するなか、無理をして政務を取り続けていたという経緯があったんです。米騒動の責任という形で、寺内はようやく体を休めることができたのです。そして、この後闘病生活に入り、1年後に亡くなっています。67歳でした。

 

 

《日本語訳》

 

逆境のなかで咲く花は、どの花よりも貴重で美しい。(ウォルト・ディズニー

  

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夏目漱石の試練 斑鳩 3 ―レトロゲーマーが思い出す日本史―

 

夏目漱石は、著書『草枕』の冒頭で「意地を通せば窮屈だ」と言いました。

 

 

《英語訳してみよう》

 

ー試練ー 

 

自らの意志が、強固であるほど

様々な試練に苛まれるものだ。

無論、試練を目前に避けることも

出来れば、逃げる事も出来る。

だが、試練の真意は、そんな己

の心を克服することにある。

 

 

意志が強いことと、頑固なこととは違うのではないか、と思うことがあります。

 

意志が強い人間は、人の意見を聞き入れますよね。そう言った人間は目標がはっきりとしているから、そこまでの過程に過ぎない今の自分と、現段階での自分のやり方を積極的に修正するんだと思います。

歴史を眺めていても、意志が強い人は、変わることも、逃げることもできるようにみうけられます。目先の変革も逃亡も、目標へと向かう過程だからでしょう。勝つために変わるし、勝つために逃げるんです。

 

Change before you have to.
(Jack Welch)
「変革せよ。変革を迫られる前に」
by ジャック・ウェルチ(米国の経営者)

 

さらに言えば、目標に至るために、負けることさえできる。そういった人は、負けかたや、負けからの復活がうまいんです。劉邦、劉備、源頼朝、織田信長とか、よくもまあ、っていう負けっぷりを見せてくれます。

「調査兵団は未だ負けたことしかないんだよ?」は、進撃の巨人の至言でしょう。

 

それに対して、頑固な人間は、ガラスのような自尊心を守るために、自己を防衛して外部の意見を聞き入れない人にみえる。小さなプライドを抱きしめてオドオドしてるようにみえる。結論を先に決めていて、考えることを放棄しているのではないだろうか。 

 私の場合、二十歳くらいのときは「この歳でニンテンドーハードは、子どもっぽくて持てない」とか言ってたし、好きなゲームやってるときも、うまいフリして、素直にいろんな人の意見を聞くこともできませんでした。

どの動画だったかは忘れたけど、高田馬場ゲーセンミカドのイケダミノロック氏の言葉は、以上のことをよく言い表していると思ったことがあります。それは笑い話のようにみえて、はからずも、イケダ氏がどういう人間なのかを垣間見せてくれました。イケダ氏は、昔はある種のゲームには偏見もっててプレイしなかった、的な話をしている時に、次のようなことを言いました。

 

「オレ、若いときは老害だったもん。若いときのほうが老害だった。」

 

歳を重ねるにつれ老害ではなくなっていく。私はそんな人生が歩めてるでしょうか。

 


秋のシューティング祭 第7戦 斑鳩(IKARUGA)(NORMAL)

 

…あ、ソシャゲーみたいな新しいタイプのゲームとか、貫通弾とか認めませんから。20年前からずっと結論はアーケードゲームで、ミヤモトです。さあ、みなさんもガインとかワイルドスネイルとかやめて、キャラ選びを考えるのもやめて、信念をもってミヤモト老害クラブに入りましょう。

 

 

《英語訳》

 

-Trial-

 

The stronger will you have,

the more you face various

trials. Although you can

choose to escape, "Trial"

has the message for you to

conquer yourself.

 

 

せっかくですから、『草枕』をもう少し読んでみましょう。

 

夏目漱石『草枕』

「山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

住みにくさが高じると、安いところへ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生れて、絵ができる。

人の世を作ったのは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三件両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。」

 

イギリスに留学して、外の世界から日本を見たことのある漱石は、どこかに理想の世界があるわけではないと言う。今自分が居るところがイヤだといったところで、どこに行っても、行ったその先も人間が作った人間の社会でしかない。結局は、その行った先も住みにくいのだ。

夏目漱石がこの部分で言いたかったことは、どこに行っても変わらないから、今の場所で楽しむことを考えようぜってことでしょう。「おもしろきことのなき世を面白く」(高杉晋作)といったところでしょうか。

 

ただ、私的にはこういった考え方には、ちょっと待ったをかけたい気持ちがあります。どこに行っても変わらないことも確かにありますが、それだけだと乱暴な言い方ではないでしょうか。だって、やっぱり場所によって、環境の違いって大きいと思います。

私だったら、どちらかというと次の側面を強調したいです。

 

「環境を変えることは、環境に適応するのと同等の価値を持つ」

 

シャチに生まれたんなら、山に適応しようなんて思わず、海に行って無双すればいいじゃん。

ライオンに生まれたんなら、泳ぎの練習なんてせず、サバンナに向かって走ればいいじゃん。

 

日本人は、環境を変えようとすることを、すぐ「逃げる」と言う。がまんする価値のない環境に留まることを、「試練」だと言う。

ホントにそうでしょうか?

環境を変えるのって、ものすごいエネルギーが必要じゃないでしょうか?

その場に留まって戦っているふりをしていても、本当は考えることを止めただけってことはないでしょうか?

 

自分に問いかけたいことは尽きません。。。

 

 

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山本権兵衛 ―総理大臣列伝―

 
第1次山本権兵衛内閣は、1913年2月に発足しました。
山本権兵衛薩摩藩閥で、海軍系です。二度総理大臣に就任するのですが、一度目はシーメンス事件で引責辞任。二度目は、組閣中に関東大震災が起こったうえに、虎ノ門事件が起こってしまったので、またしても引責辞任することになりました。
「海軍の父」とよばれるほど海軍時代には活躍した人で、海軍軍令部を創設したりしました。ちなみに、日露戦争のときに東郷平八郎連合艦隊司令長官に抜擢したのも山本権兵衛です。
 
 
《英訳してみよう》
 
権兵衛:ニンジンはほんとうに目にいいんですか?
梅太郎:メガネをかけている馬をみたことがあるかね?
 
個人的には日本史ナンバーワンのイケメン老人です。波動砲!!!」とか似合いそうな感じ。若いころはビミョーですけど。
 
 
山本権兵衛は、1852年に生まれました。
薩英戦争のときは、まだ11歳です。このときは、弾薬運搬などの雑役をこなしました。
ソルジャーとしてのデビューは鳥羽・伏見の戦いで、このとき16歳です。軍隊への参加資格年齢に達していなかったので、なんと年齢を偽って参戦しました。
日清戦争日露戦争の間の、1898年に、ついに海軍大臣に上り詰めました。西郷従道の後任です。
山本権兵衛の好物はくだもので、野菜もよく食べたといいます。桜島のミカンが特に好きだったそうです。どこぞのヨサクとは違うというわけですね。
実際、脚気に対して伝染病説をとる陸軍は、多数の病死者を出しましたが、鈴木梅太郎が提唱したタンパク質不足説を認める海軍は、麦飯効果で大丈夫でした。
 
《英語訳》
 
Gonbe: Are you sure carrots are good for the eyes?
Umetaro: Have you ever seen a horse wearing glasses?
 
 
山本権兵衛は、退職した後は、元老にも元帥にもなれませんでした。海軍における功績は大きいのですが、総理大臣としての業績に目立ったものがないからでしょうか。それとも、軍部大臣現役武官制を緩和するなど、藩閥に反する政策も行っためでしょうか。それとも、質素な生活を送り、酒席にもまったく出なかった山本権兵衛は、政治的には強いグループを形成しなかったからでしょうか。
 
山本権兵衛の「ごんべえ」ですが、鹿児島市維新ふるさと館では、かたくなに「ごんのひょうえ」と呼んでいます。そもそも山本の実名は「盛武(もりたけ)」で、維新後に海軍兵学寮に通ってたころから、自ら「権兵衛」を使いだしたという経緯がありました。そして、「ごんべえ」はやがて本名扱いになりました。「ごんのひょうえ」というのは、一度祝詞でそうよばれたからだそうです。
もちろん「ごんべえ」じゃなくて、そこは「ごんべ(権べ)」だろって思った人は分かってる人です。
 


春のシューティングまつり 最終戦「いっき」

 

参考英文: 里中哲彦『1日1分半の英語ジョーク』宝島社

1日1分半の英語ジョーク (宝島社文庫)

1日1分半の英語ジョーク (宝島社文庫)

 

 

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鎖国→鎖骨→中ゴス

鎖国→鎖骨→中ゴス、と無理矢理やりボケたい気持ちを抑えて、
 
次の英文を日本語訳してみましょう。
 
"When I say 'Sakoku', I mean 'Sakoku!" raising a weird cry, Shiduki Tadao flopped around before collapsing into tears.
 

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《日本語訳》
 
「オレが鎖国って言ったら鎖国なの!」志筑忠雄は奇声を上げながらパタパタと跳ね、泣き崩れた。
 
 
志筑忠雄(しづきただお)って誰でしたっけ??
 
その前に、
江戸時代の外交を表す言葉として「鎖国」というものがあります。
キリスト教禁止のためにヨーロッパ船の来航を禁止して、日本人が海外に渡るのを禁止したアレですね。この鎖国ですが、近年では「いわゆる鎖国」というような、ゴニョった言い方をすることが多くなりました。
なぜでしょうか?
 
実は「鎖国」というのは、もともと江戸時代の外交政策を消極的に評価して、批判した言葉だったのです。
始まりは、17世紀末に長崎に来たケンペルが、帰国後に日本について著した『日本』という本でした。(受験生は、安土桃山時代ルイス・フロイスが著した『日本』と間違えないようにしましょう)そして、江戸時代後半に、志筑忠雄がこの『日本誌』の一部を『鎖国論』という名前で和訳したのが、「鎖国」という言葉の始まりでした。志筑忠雄は、『暦象新書』を書いて、万有引力や地動説を紹介した人としても、受験的には有名です。
 
この「鎖国」という言葉は後に有名になり、昔の教科書などでは、江戸時代には海外との交流を閉ざしていたという消極的なニュアンスを引き継いで、「鎖国」の語を長い間使ってきました。
ところが、研究が進むにつれ、江戸時代でも、幕府は貿易を統制しながら一定の国々と交流していたことを、積極的に評価しようという流れになってきました。そこで、学者的には「鎖国」をなるべく使いたくない!使ったらシロウトっぽい、という気持ちが生まれるんです。予備校講師的にも、「鎖国」「鎖国」言ってたら、勉強していないと勘ぐられるんじゃないかという恐れもでてきます。だから、「鎖国」って言いたくない。
 
志筑忠雄、大ピンチ!!
でも、、、「鎖国」に代わるウマい言い方がない、ということで、消極的に「いわゆる鎖国」といった言葉を使ったりするのです。
 
 
受験的には、鎖国中も
 
長崎では、オランダ・中国(明→清)
対馬では、朝鮮
松前藩では、アイヌと、
 
それぞれ交流があったことは必ず習います。
 
っていうか、ものすごくよく出題されます。、絶対にチェックしておいてください。
 
 
中ゴスについて学習を深めていきたい人は
 
英文参考:中山著『試験に出ない英単語 出る篇』飛鳥新社
試験に出ない英単語 出る篇

試験に出ない英単語 出る篇

 

 

 
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「浮き世」?「憂き世」? 斑鳩 Chapter1.理想(Ideal) ーレトロゲーマーが思い出す日本史ー

 
散ればこそ いとど桜はめでたけれ
  うき世になにか久しかるべき
(散るからこそ、桜はいっそうすばらしいのだ。このつらい世の中に永遠のものなんてないのですから。)
 
これは、平安時代に成立した伊勢物語の歌です。国風文化ですね。
あるとき、在原業平っぽい男が、桜の宴のときに次のようにうたいました。
 
世の中にたえてさくらのなかりせば
 春の心はのどけからまし
(世の中に桜の花がなかったら、春の気持ちは(桜が散ることを心配して悩むことがなく)ゆったりできるのに。)
 
この歌に対する返歌が、最初に紹介した歌なんです。
 
このときの「うき世」には、「憂き世」という漢字をあてます。意味は、「つらいこの世の中」です
ところが、江戸時代の元禄文化浮世草子とか、化政文化滑稽本の『浮世風呂』(式亭三馬とかは、「うきよ」に「浮き世」の字をあてていますね。もちろん浮世絵もです。この違いは何なのでしょうか。
 
 
「うきよ」とは、もともと仏教的な言葉でした。仏教的な厭世観(=世界を悲観的にとらえること・世界に絶望して厭うこと)をもとに、この世界をつらい(=憂し)世とみて「憂き世」と書いたのです。ところが、そこに漢語の「浮世(定まることのない世)」の意味が加わって、「浮き世」とも書かれるようになりました。さらに江戸時代になると、楽しく生きようぜっていうムードが広まって、なぜか意味が180度ひっくり返って、「浮き世」を「楽しむべき世・享楽的な世」という意味で用いるようになりました。そして、江戸時代の文化が花開くことになりました。
 
 
そう考えると、斑鳩の1面と3面のカットインの「浮き世」は、「憂き世」でもよかったのかもしれません。
今日は1面のものをご紹介します。
 
「嗚呼、斑鳩が行く・・・・・・
 
望まれることなく、浮き世から
捨てられし彼等を動かすもの。
それは、生きる意志を持つ者の
意地に他ならない。」
 
Alas, Ikaruga is going...
 
Undesired, unwanted them,
What makes them go?
It is nothing else than the
principle of the man who
has the reason for being.
 
 
詩的な表現ですね。
まず、"alas"は日常生活では使いません。文学的な表現です。『不思議の国のアリス』で、
"...but, alas for poor Alice!"
(でもかわいそうなアリス、ざんねんでした!)
とかね。まさに、「嗚呼(ああ)」ですね。
 
あと、倒置もめんどくさいですよね。
They are undesired, unwanted. が倒置されて
Undesired, unwanted are they. になって、さらに
are they が them に変化しています(口調を整えるため)。
 
高校で英語やっているときに、倒置法にキレたことはありませんか?
今までのは何だったんだ! どう区別つけるんだ!って。
分かります。個人的には、高校英語で倒置法はやらなきゃいいのにって思います。外国語を学ぶときは、なによりも論理的な文章を作れるようになることが大事だと思います。
 
 
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時は流れない、それは積み重なる 志賀潔(北里柴三郎の弟子) ー科学・技術史5ー

 
明治時代には、世界最先端の研究を行う科学者が輩出されます。
研究の道は険しく厳しいものです。そんな人生を歩んだ後は、おばあちゃん・おじいちゃんになるのも悪くないもんです。
 
 
 
《英訳してみよう》
 
歳をとると、3つの兆候があらわれます。1つは忘れっぽくなること。それと、あと2つは……忘れてしまいました。

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42歳

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82歳
 
 
《英文》
 
There are three signs of old age. The first is your loss of memory, the other two... I 've forgotten.
 
 
それでは、教科書に載っている自然科学系の偉人の業績を見てみましょう。
今日は志賀潔です。
 
 
志賀潔(Shiga Kiyoshi)
医学(physician and bacteriologist)
 
 
赤痢菌の発見
 
→ Shiga graduated from the Medical School of Tokyo Imperial University in 1896.
He went to work at the Institute for the Study of Infectious Diseases under Dr. Kitasato Shibasaburo.
Shiga became famous for the discovery of Shigella dysenteriae in 1897.
 
Medical School of Tokyo Imperial University…帝国大学医科大学
Institute for the Study of Infectious Diseases…伝染病研究所
Shigella dysenteriae…赤痢
 
 
志賀潔は25歳で大学を卒業して、伝染病研究所に入って、北里柴三郎の弟子となりました。
そして、なんと翌年には赤痢菌を発見しています。すごい!
1897年だから、受験的にいろいろ出てくる年ですね。志賀潔赤痢菌発見は年号を問われることはありませんが、貨幣法(金本位制確立)・労働組合期成会設立・綿糸輸出量が輸入量を超える、の年です。
 
なお、赤痢菌の学名の「Shigella」は志賀にちなんでいます。
 
志賀潔は、この後かなり出世コースを歩んだようです。
 
慶應義塾大学医学部教授
京城帝国大学医学部長
 
と、すごい漢(おとこ)だ!です。
 
ところが、東京大空襲で家財を失ったとか、いろいろあったようで、晩年はかなり質素で貧困な生活をおくったようです。
 
 
師匠の北里柴三郎については、

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英文参照:里中哲彦『1日1分半の英語ジョーク』宝島社

ううまま うままう うまう うままう ーレトロゲーマーが思い出す日本史ー

 
かつて、お釈迦さまは言いました、「厳しい修行をして、悟りを開くのです。」
 
ところが、お釈迦様が言うことは難易度が高すぎて、誰も実行できません。誰も修行を実行できないというお通夜ムードが広がると、誰も宗教に入信してくれなくなってしまいます。
こうした理由があるから、宗教家は悟りを開いたり、天国に行ったりする条件、いわばハードルを下げていく傾向にあります。世界的な傾向です。「自分にもできそう」と、みんなに思わせることが大事なんです。「飲むだけで10キログラム減量できるの錠剤」とか「もってるだけで開運成就の石」とか。
 
日本の仏教界も例外ではなく、時代が新しくなるにつれて、宗教家は修行や悟りのハードルを下げていきました。
そして鎌倉時代のこと。その究極である一遍は言いました。
「仏を信じる信じない、行いの浄不浄に関係なく、人々は阿弥陀如来によってすでに救われているのです。」
 
人々は思いました。「えっ!?自分が極楽に行けるって、もう生まれたときから決まってるの? 修行しなくていいの? 好きなことだけやってていいの?」
一遍は言いました。「さあ、この喜びを表現するのです。」
するとどうでしょう。皆の極楽往生が確定されているという喜びが人々の心を高揚させて、「なむあみだぶつ」と唱えながら踊り始めたではありませんか。
これこそが、教科書に名高い時宗踊念仏(おどりねんぶつ)なのです。
「一遍が弟子たちと鉦(かね)を打ち、床を踏みながら踊っている」(山川出版社『詳説日本史』)絵は必ず教科書にあります。「一遍上人絵伝」で画像検索して、一遍のエクスタシーな表情をチェックしておきましょう。
 
 
《英訳してみよう》
 
一遍とオーディエンスは、ふしぎなおどりを踊りながら「ううまま うままう うまう うままう」の呪文を詠唱した。
 

 
 
《英語訳》
 
Ippen and his audience chanted "U-U-MA-MA U-MA-MA-U U-MA-U U-MA-MA-U", dancing an odddance.
 
 
平成元年の冬、「グラディウスⅠⅠⅠ ー伝説から神話へー」というシューティングゲームが稼動しました。グラディウスⅠⅠの成功を受け、読者からアイディアをつのって登場したグラ3でしたが、まあ難しい。そんなゲキムズのグラ3の前半の山場が、ステージ3のボス「ビッグコア マーク3」でした。その反射レーザーは早くて避けにくく、当たり判定のデカさもあって、プレイヤーの心をズタズタにしたものでした。しかし! そんなプレイヤーの救世主となったのが、当時唯一のアーケードゲーム専用雑誌『ゲーメスト』、略して「メスト」の攻略記事でした。
 
メストは言いました。「「ううまま うままう うまう うままう」と詠唱しながら逃げるのです。」
そう、ビッグコアマーク3の反射レーザーには、一定のパターンがあったのです。
反射レーザーを避けるときに自機を合わせる場所は、なんと二箇所だけ。後ろ(う)か前(ま)です。これが一定の順序で放たれていたのです。
 
なんと! このパターンさえ覚えれば、我々は生まれながらにしてステージ3をクリアできることが決定しているも同然ではないか!!
こうして、全国のプレイヤーは米酢斗如来(めすとにょらい)によって救済され、全国のゲーセンでは、プレイヤーとギャラリーによる「ううまま うまままう うまう うままう」の大合唱が絶えるこがなくなったのでした。めでたしめでたし。
 
⇩反射レーザーを避けるときの、自機の前後の動きに注目。動画では最初の「ううまま」の「まま」で前に出ずに、もう一段階後方のポジションに移っています。その後は、呪文通りです。最後に自機をつぶしてますが、このときに画面の一番下にいって少し待てば、ボスのほうが自爆してクリアできます。
 
バルサミコ酢のアレ(うっうっーうまうま)とは一切関係がありませんので、間違えないようにしてください。試験に出ますよ。
 
 
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