誰も得しない日本史

誰も得しません

卡卡們的大亂鬥 清浦奎吾 ー総理大臣列伝ー

【清浦奎吾 名言】
 
過渡期ニ於イテ斯ノ如キ内閣ガ憲政ノ常道に背クモノトハ思イマセヌ
 
 
清浦奎吾は、1924年の1月7日に組閣しました。同年の6月11日には第二次護憲運動で倒閣されていますので、かなり短い内閣です。
 
1月7日といえば、ちっともおいしくない七草粥を食べさせられる日であると同時に、カンボジアではポル・ポト政権が崩壊した開放の記念日でもあります。カンボジアでは1975年からの4年間で、数百万人の人が粛清されたといいます。ゲロマズの七草粥でも、命があることのありがたさをかみしめながら食べなければいけませんね。
 
 
 
清浦奎吾は、1850年2月14日に生まれました。
おおっ!これは、まさに古のローマで、聖ヴァレンティヌスが皇帝に処刑された聖なる日ですね。もちろん、このブログを読んでくださっている方なら、100gで600calにもなる茶色い悪魔フードではなく、額縁を愛する人に贈るはずです。

 

 
1850年生まれということは、星亨とかモーパッサンと同い年です。この年には、佐賀藩や江川太郎左衛門が反射炉を作っています。
 
 
この奎吾くんですが、幼名は普寂(ふじゃく)です。……ふ、ふぢゃく???何、そのキラキラ感にまみれた名前は??
調べてみると、普寂とは、奎吾くんの時代よりもはるか昔の、7~8世紀を生きた中国の僧侶のことのようです。Wiki先生によると普寂は禅僧とのことですが、華厳尊者という別名ももっているそうです。若いころには法華経や唯識、そして戒律を学んで、後に禅宗にくら替えしたみたいです。
 
普寂は、台湾(たぶん。繁体字だから)のオンラインゲーム「卡卡們的大亂鬥」に登場しているんですね。
 
清浦奎吾は貴族院議員で、華族です。「華族がなんで中国の僧侶の名前なんてつけてんだ?華族っていうのは、マロとかマルいう名前を付けて、虫けらを体の周りに飛ばしながら、おじゃおじゃ言ってんじゃないの?」と一瞬思ってしまいますが、奎吾くんは司法大臣などとしての勲功で叙爵された人なので、生まれながらの華族ではありません。
 
じゃあ、生まれは?というと、肥後(現熊本県)の明照寺という、お寺さんの子どもです。おおっ、それなら昔の中国の僧侶とかいう、キラキラまぶしい名前を子どもにつけるのも納得です。
 
なお、この明照寺は、今は熊本県山鹿市に属してます。温泉の名所ですね。私も何度も行ったことがあります。・・・あ、今思い出しました。あのへんの温泉に入っているときに、サンダルを盗まれた(もしくは、間違ってはいていかれた)ことがありました。しょうがないので温泉から裸足で帰り始めて、さらにそのまま裸足でロイヤルホストや佐賀競馬場に突入していったことも思い出しました。今なら、通報案件ですね。・・・まあ、通報されたとしても、お釈迦様も基本はだし(だけど、少し浮いてる)だから、職質されたら「山鹿市の明照寺から来た仏道を志す者です」的なことを言えば、許してもらえるかもしれません。
 
個人的に、清浦の幼名「普寂」について気になるのは、この明照寺は本願寺派、すなわち浄土真宗のお寺さんだということです。浄土真宗といえば、親鸞が開いた宗派であり、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏を唱える浄土教系の宗派です。
 
もちろん、ここで「ああ、あのバグを使わないと倒せない琵琶法師は、浄土教系だったのね」と思った人は、分かってる人です。
 
たわむれはさておき。
浄土真宗といえば、原理原則的には「専修念仏」といって、念仏以外を捨てた宗派のはず。つまり、法華経なんてやっている普寂をなぜもってくるの?
浄土真宗といえば、原理原則的には「悪人正機」といって、戒律を守れない悪人こそが救いの対象だと言ってたはず。つまり、戒律がんばってた普寂をなんでもってくるの?
浄土真宗といえば、原理原則的には「他力本願」といって、自力で修行して悟ることを捨てゲー(※捨てゲー…ゲームを途中でやめること)したはず。つまり、自力修行大好きな禅宗の普寂をなんでもってくるの?
というあたりが、気になるところです。
 
 
清浦奎吾は、12歳のときに養子に出されました。養子に出された先もお寺でしたが、お寺の修行がイヤで、実家に舞い戻ってきました。
 
Live as I you were to die tomorrow. Learn as if you were to live forever.(Gandhi)
(明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ(byガンジー))
英文参照:サイト「英語名言集」(http://www.kkgs.net/
 
次に、豊後日田の咸宜園という有名な私塾に入って、学問に集中します。ここでメチャクチャ勉強して、清浦は頭角をあらわしました。
 
 
大人になった清浦奎吾は、司法省に入ります。ここで、清浦は内務卿の山県有朋に目をかけられます。こうして、清浦は官僚の道をすすみつつ、爵位を得て華族となり、政治家への道へと転身していきました。
 
そして、第1次山本権兵衛内閣がシーメンス事件で倒れたあと、山県有朋の後継者の桂太郎亡き後の総理大臣候補となります。しかし、このときは海軍と対立して組閣に失敗してしまいます。
それから10年ほど経ったころ、今度は第2次山本権兵衛内閣が虎ノ門事件で倒れたあと、元老の西園寺公望によって再び総理大臣候補にたてられました。権兵衛の後釜好きですね、この人。こうして、二度目のチャレンジで総理大臣になれました。清浦奎吾、73歳のときです。
 
73歳で総理大臣となった清浦ですが、就任早々政党勢力の反発をまねきます。
政党勢力は護憲三派を結成して、選挙によって半年程度で清浦内閣を倒しました。これが、第二次護憲運動です。
 
Retirement at 65 is ridiculous. When I was 65, I still had pimples.
(65歳で退職なんてばかばかしい。私が65歳の時はまだニキビがあったよ(byジョージ・バーンズ))
 
総理を退いた清浦は、重臣としてその後約18年、1941年の東条英機内閣発足まで政界に身を置き続けました。
熱海で亡くなったのは、1942年です。92歳でした。